普通になりたい女の備忘録

死なないために書いてます。終わったら、何も残らないから。生きたい。今日もあなたのことを想って。

ニートを体験した気分...

こんばんは〜。今日はあまり書くことがないので余談ばっかりになると思います〜。昨日はニトラゼパムデパス1mg飲んで寝ました。寝つきはよくなかったですが、まぁ覚醒なしで寝れました。二度寝しましたし、昼寝もしました。だから16:00くらいまでは寝たり起きたりを繰り返していたので今日は寝てた!!!!!!と一言で終わりていところですが...

ちゃんと書きます。今日は何について書こうかな〜。と考えているので中高の黒歴史でも書きましょっか!

私は中高一貫校に通っていました。過去の記事に書いたかどうかは覚えていないので、もしかしたら知ってるかもしれなですけど...。

しかも高校から新規で入学を受け付けていない学校だったので6年間同じメンバーでした。正確には6、7人はやめたり留年したり又は留学等で留年して一個上の学年からわざと落ちてきた人もちらほらいました。んでもって友達の作り方を忘れ新しくあった人との距離感をつかめずに大学生活を送っています...。

まず中学時代、運動部に入りました。父から運動部に入りなさいとの命令があり素直に従った13歳でした。しかし私はその頃から変人であったので部活内で人間関係に問題を抱えたりサボりぐせがついて練習に行かなくなり中学一年生が終わる頃にやめました。やめる一番の理由としては毎週一回5km走らされるのがイヤだったから。色々なストレスでメロンパンの大量摂取により二ヶ月で6kg太りました。その頃の写真は見るに耐えないくらいパンパンな顔面です。一言で言うとクソクズですね。

14歳、私の学校は毎年クラス替えがあるのでクラス替えでクラスが変わりました。中学二年生の時のクラスはカースト制みたいな感じで私はもうそれは一番下の人権ないランクにいました。前の席に座っていたデブ(今は嫌いな子なのでデブと呼んでいます)に誘われてまた違う運動部に入りました。その部活では中学一年生に最初の頃は少しバカにされたりデブにハブられたりしましたが次第に私の腕も上がりレギュラーにもなったので楽しく過ごしました。一方クラスでは友人が少なく、アニメ好きのオタクと呼ばれる中高では人権のない友人たちと過ごしていました。一瞬ボカロにもハマりましたが、もう聞いてません。スキー教室など楽しい思い出もあったりはしますが、中学二年生の時のクラスは二番目に嫌いなクラスです。

15歳、クラス替えをしカースト制、消滅。全然雰囲気の違うクラスで行事の実行委員なんかもやってみたりして基本的には楽しい毎日を過ごしていました。しかしその行事実行委員の仕事で引退前の練習に参加できなかったことが原因でデブをはじめとする部員にめっちゃ怒られて初めて死にたいと思うようになりました。この頃に南条あやを知りました。「卒業式まで死にません」を読んだ時は泣きそうになりました。それでも一応部活を続けましたが、春休みにもう限界を迎えフェードダウンするように部活をやめました。ちなみにリストカットを始めたのはこの頃です。そしてストレスで気づいたら人生最大のデブ期を迎えました。入学からプラス12kgです。それでも不思議なことに制服のサイズは変わっていません。おそらく全てが脂肪ではなかったのでしょう。

高校生になりました。16歳、またまたクラス替え。一番好きなクラスでした。今度は体育祭の委員になってみました。このクラスは運動できる秀才がたくさんいるクラスで学年優勝をしたりするなどとても楽しく過ごしていたのですが、そんなことを言っているのもつかの間。6月、テストで本当にひどい成績をとり一度は治ったリストカット癖が再発、しかもそれが進行し保健室へ通うように。保健室で堂々と切ったこともあります。そんなことをしているせいで担任のハゲから母親に連絡が行きました。泣かれましたがその頃の私はリストカットなしで生活は不可能でした。学校のトイレでもリストカットをし、半袖の制服を着れなくなりました。でもチャレンジャーのMは夏休みの補講の時に半袖で登校し同級生に裏垢で悪口を書かれました。なんで裏垢がわかったのかと言うとまぁアレをソレして同級生のアカウントを特定して監視してソレをアレするなどちょっと法に触れるスレスレのことをしていたからです。やっぱり昔から変人ですね。学校生活最大の危機を冬に迎えました。トイレでリストカットしていることが同級生のネカマ男子にバレ、拡散されツイッターで「リスカマン」と呼ばれるようになりました。Mは再び人権を失いました。でもツイッターをやっている同級生しかあまりその事実を知らず、やっていない同級生にはバレていなかったので友人は普通に接してくれました。ネカマの男子の周辺のイモたちが勝手にリスカマンと騒ぎ立てていましたが、ネカマとはクラスがちがかったので良かったです。

17歳、最悪な年でした。ネカマと同じクラスになってしまったの巻です。そのせいでツイッターをやっていない同級生にもリストカットをしていることがバレ、ついには学年主任に呼び出され学校のカウンセラーの元へ連れて行かれました。ストレスで7kg痩せました。学年主任に呼び出された時は泣きました。ここまで知られてしまったんだな、と。呼び出された時の言葉はよく覚えています。「M、最近すごい授業中も顔死んでいるから心配なんだけど何かあった?...色々な人から聞くんだけどリストカットしているって本当?」です。色々な人はおそらくネカマの周辺のイモたちのことでしょう。でも先生たちにバレていることは相当いろんな人に知られていると恐怖と死にたさで泣きました。呼び出され、その言葉をかけられた時はもうパニックになっていたのでその次の時間の授業時間は保健室の先生と学年主任と3人で話し合いになりました。Mはその頃、自傷衝動をピアスの穴を開けるなどにも向けていたのでそのことについても話しました。怒られず、逆に心配されたのは笑い話としていろんな人に話していますが(笑)そんなこともあり、心療内科の受診を勧められ母と心療内科に行きました。その時に言った医者は昭和の頑固ジジイだったので自傷行為自体になんか批判的なことを言っていたので3回くらいしか通院しなかったです。そんなんでも一応、病名をつけられました。双極Ⅱ型です。へぇ〜私病気だったんだ〜みたいな感じでした。ほんと自分のことなのに他人事っぽいがヤバイやつです。冬になり、受験受験言われるようになったので一応大手の予備校に通い始めました。学校の授業は単位が取れなくなるギリギリまで休みました。それでも単位は大丈夫でした。

18歳、学年主任のクラスになりました。Mは文系なのでもちろん文系クラスに入れられました。春休みは毎日一応予備校にこもってみました。もっぱら英語をやっていた記憶があります。学校の方はどうだったかと言うとクラス替えと学年主任の配慮でネカマとその仲間たちからの攻撃は減りました。と言うか攻撃があるたびにその画面をスクショし、学年主任に報告しネカマたちが呼び出されたのかどうかは知りませんが注意はしていたそうです。受験生なんだからそんな暇あれば勉強しろよって感じですけど。5月の体育祭が終わりその時期から私は朝はあさイチ登校し日本史をやり、放課後は塾へ向かい閉館まで勉強をすると言う受験生の中でも割とガチモード?で勉強をしていた生徒でした。その頃は精神的には落ち着いていましたが、耐えきれなくなると学校を無断で欠席し、地元の図書館で勉強をしたりなどしていました。勉強は嫌いではないんです、学校に行きのが嫌だったんだと思います。夏休みはバカみたいに前半は毎朝7:00から20:00まで予備校にこもっていました。後半はやる気が消滅し予備校をサボったり、一個下の友人と遊んだり受験勉強放棄期になっていました。夏休み最後の模試は成績全く上がらずでしたし。夏休みあけからまた元のガチモードに戻りました。でもストレスがたまりたまに深いリストカットをしたり、学校をサボってバス定期を利用していろんなところに放浪したり、学年主任騒がせな生徒でした。なんやかんやで受験に突入。で今の大学に合格。合格を学年主任に伝えに言ったら飛んで喜んでいた姿は忘れません。ありがとう学年主任!無事に大学受験を終え、終わった瞬間にバイト探しをしました。バイトへの執着もすごかったうようです。3/3、卒業。卒業式はうるっとくる瞬間もありましたが、周りの鼻水の音とかが気になったり、男子や私のリストカットを煽ってきた人たちがガチ泣きしているのをみて涙が引きました。残酷な人間です。教室で学年主任から直接卒業証書を渡された時に「Mは真面目すぎるから、大学とか社会に出ても頑張りすぎないでね」と言われました。その時は泣きませんでしたが、その日の夜、一人でこっそり布団で泣きました。

 

 

....。タイピング疲れました。こんな感じの6年間でした。後半は学年主任に助けられまくってますね。また母校に顔出そうかななんて思ったりもしてます。このブログを学校関係の人にみられたらと思うとまた死にたくなりますが、もう投げやりなので誰でもみてくださいどうぞどうぞって感じです。今、打ち終わって学年主任に会いたくて少し泣いているのは内緒です。...。今も担任の先生とかが存在すればいいのに。頼れる大人がいなくて困っています。あ、宗教センターの主事さんがいるか。でもリストカッターであることは伝えていないんだよなぁ。言うの怖いな☆なんで☆とかつけてるんだろ自分。あぁ学年主任、会いたいよぉ〜(恋人か)